矢野目源一のまなざし(前編)

小野塚 力

 吉行淳之介「七変化の奇人」に描写される戦後の矢野目は、まさに奇人としかよびようがない。たぶんに吉行自身の共感を得て描き出される矢野目源一の姿は、果てしがなく、いかがわしい。一夜にして様々な大家になりおおせ、その都度、専門を変えてゆく。ある時は写真の大家、またあるときはスタミナ食の専門家、あるときは医学の達人といったふうに。戦後の矢野目の著作の大半は、現在一顧だに価するものではない。まちがいなく食いつなぐための手段に堕しているからだ。先に〈個〉であることへの懐疑ということを私は書いたが、このあたりの矢野目の消息に窺うことができよう。吉行は戦後の矢野目源一について、なにか悲劇的なものに耐えている目をもつ人だったと描写しているが、戦後の矢野目のまなざしにたたえられたものは何だったのだろうか。吉行が一切無視した戦前の著作からとらえたときに、彼のまなざしがうったえるものをよりくっきりととらえることができるのではないだろうか。

矢野目源一の戦前のおもな仕事は、実作としての歌集および詩集と翻訳詩集とに分けられる。歌集「搖籃」(大正四年六月刊)は若き矢野目源一が結核にかかったのを契機に編まれた。療養のため北海道にいった後書きためられたものや日々の反古にかきためたものを集めている。歌集の性格は日記、日録的なものが強い。二冊の詩集「光の處女」「聖瑪利亞の騎士」に目立つ、つくりこんだ作は少ない。おおむね骨格がはっきりした歌、詩が多く、心情注視にだけながれるだけでなく多岐に渡る作風、連続性が特徴である。詩集にみられるかたくなさは少ない。のびのびとした春のひだまりのようなここちよさのある歌集である。この歌集は「薄明」「草笛」「北海道印象」「相聞」「旅人となりて」「精霊」という六つの章にわかれている。このうち、日記的な自照作用、観照作用と読み手にもたらすのは、「薄明」「旅人となりて」である。日々の反故の中から歌を拾い集めたという本人の弁もあるように、なにげなく書き留めたような歌も散見している。この歌集で私が注目するのは「草笛」「北海道印象」の章である。「草笛」はこのように始まる。

大崎に友の御墓をとめゆけば手なる山茶花風なきに散る(以下武夫君の墓にて)

これやこの一基の石が美はしき頬もてりける君のすがたか

この石碑なからましかばなかなかにうれひのかくも深きはなけむ

花そなへ御線香たき水捧げ涙ぐめるを君は知れりや

寒き日も淋しき夜もあるならむさればしばしば訪ひまゐらせむ

落日よいたましきまで紅に淋しきわれに涙あらすな

友人の墓参りを詠んだものだが、この章の歌の基調となるものに、〈死〉への予感や孤絶感などが示されていることに注目したい。そして、その傾向は、続く「北海道印象」に収められた歌群に顕著になっている。

桟橋の長きに白う雪みえてかもめ群れとぶはこだてみなと

灯は白く人皆ねむりくずれたり夜汽車の中にわれひとり覺ぬ

なにとなく涙ながるゝ北の国の雲はてりはえ潮光れる

夕やみは船の舳よりたちのぼり夜光る虫は花と散りつゝ

こころよき顔色みせていでたちぬ内に別離の涙あれども

今日よりは母人の肩いとむとも誰かたたきてまゐらすべしや

弦月に山脈白う浮み出で人の住むべき国とも見えず

冒頭からいくつか引用してみたが、前述の通り、歌を詠む主体が一貫して弧絶したものとして意識されているのが窺える。この弧絶感の根本原因はなにか。この歌集の跋文に

  我れこの詩歌集を編みし第二の動機は、去年の春より胸を病みて、死の影はつねに我がうしろに立ちたりき。我れもし若くして世を去らば、何物も後に残るなきを憂ひ、せめては幼き讃嘆を見よかしと、古き日記よりノートの端より端き詠草を集め置きぬ。去年の秋より北海道の父母の許に温き愛に包まれ、病を養ひたれども友なき淋しさは日毎にわれを苦しめぬ。時雨は落葉松、白楊の梢をたゝきて、幾日か木の葉の挽歌は続けり。

 と記述されているように、当時、死病としての規定が先行していた結核が矢野目源一の疎外感、孤立感の根のひとつとなっているようだ。また、この歌集の性格そのものに「老い易き少年の春を惜み、わが思ひ出のよすがにと、一編の小詩歌集を編めるわれは、幼き日の絵巻に金泥を置く心持ぞせらる。幼き日の夢よ、搖籃の唄よ、永遠に今は別れむ。」と跋文にも記述されているように、自らの原風景的なものへの決別または記念としての価値を作家は認めている。このときすでに矢野目自身の生そのものについても、どこか突き放したような感覚を感傷性の裏に感じとれるように思う。おそらく、その感覚は「光の處女」などで顕著になる〈無化〉〈相対化〉という方向性につながるものではないだろうか。

中編へ続く 


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