POEのACROSTICS二章
附、Poe夫人の夫に献げたるValentine詩 

平井 功 

T.はしがき
世にacrosticと云ふ詩體がある。詩體と云ふと些か語弊があるが、さう云う種類の詩がある。これは、横に読めば普通の詩であるがその中に、その詩を献げた人の名前だとか、或は何かの文句などが織り込んであるのである。各のlineの最初の文字を織り込んで合せると、相手の名前が出て来るなどと云ふのは一番普通である。詩と云ふよりは「文学遊戯」に近く、日本で云へば地口のたぐゐと見れば間違ひはない。
 ところでEdgar Allan Poe(1809−1849)の詩にも、そのacrosticが二篇遣つてゐる
勿論、Poeがacrosticを書いたなどと云ふことは、Poeの詩家としての、本質的な評価には亳厘も光輝を添へる所以ではない。むしろ、そんな戯作を後代に遺したことは、詩家としての彼、
 “With me poetry has been not a purpose,but a passion.”(Preface to the Poems,1845)
「わたくしにとつては詩は目的ではない、実に情熱である。」
と、確信した彼の為に、惜しむべきであるとさへ思はれる。

 それは何故か。また、Acrosticは何故「文学遊戯」以上のものとは看做すことが出来ないか。これは敢て説明するまでもない。Acrosticなどと云ふものは、詩歌に於けるacrobaticである。軽業である。製作の根本動機に於て己に既に不純である。その詩の根ざすgroundそのものが、まづ最初から錯つてゐる。如何なる名工巨匠と雖も、かうした立場に基いて、秀詩を成し、佳汁を作すことは不可能である。よしんばその製作に際して、作者が如何に心血を注ぎ、全力を傾けたとしても。その”passion”も、その”purpose”さへも、”poetry”そのものには向けられてゐない。すべて「詩」の埒外に向けて注がれてゐる。  床屋の親方が雑俳をひねくり、金持の楽隠居が狂歌に凝ると同様の程度で、dilettanteが余戯として、座興(即興ではない)としてacrosticを弄するが如きは、もとよりわたくしの容喙すべき處ではない。「結構なお道楽で。」と云つてをけばそれですむ。だが、真に詩家として立ち、詩を以て生涯の目的とも情熱ともする徒が、かくの如き「座興」の具として、詩を扱つたと云ふことは些か赦し難い。
況して一世の秀詩”Raven”を生んだ作者が、かくの如き過失を敢て後代に遺してゐると云ふことは、尠くともわたくし達Poe愛好家にとつては、寔に遺憾である。

 ところで、このacrosticと云ふものを、暫く藝術Artの根本義を離れて、単なる技術Craftの一面からのみ眺めたならば如何か。
 一體、世上藝術家artistを以て目されてゐる人のなかには、単なる技術家craftmanに過ぎないものが決して尠くない。例へば英国近代に於けるJamesBarrieの如きがそれである。愛蘭近代に於けるLoadDunsanyの如きがそれである。世上一般の大向連が、この両者の辨別と認識との明確を缺く者の尠くないことは寔に遺憾とせねばならぬ。
 では、この藝術と技術との根本の相違は何れにあるか。日夏耿之介氏に次の如き言葉がある。
「凡そ、何らかの形式又は態度に於て。人間死生の一大事に深く勁く聯關してゐない文学は、玩具文学であり、幇間文学であり、自涜文学であり、奴隷文学である。」(壹阡壹夜詩譚。第二夜、當世大俗文学に嫌厭たる事。汎天苑、第七號、第63頁。)
 わたくしは、これほど簡潔に藝術の核心を衝き、根本を闡明した語を知らない。更にこの語を敷衍して、藝術と技術との相違を瞭かにすれば、「藝術」は製作の動機を「人間死生の一大事」に発し、之を究極の目的とする製作の謂であり、「技術」は製作の動機を単なる「思ひつき」に発し、「興味」に発し、終始「興味」と小手先の「器用」とを生命とする制作である。前者は「興味」を加味する場合にも、「器用」と「才気」とを閃かす場合にも、「器用」も「才気」とを閃かす場合にも。あくまでも作者が主體であつて、「興味」も「器用」も「才気」も、作者の傀儡となつて働く。之に反して後者の場合には、作者は「興味」の、「器用」の、「才気」の奴隷であつて、終始之に追ひ使はれてゐる。後者から束の間の「興味」を、小手先の「器用」を末梢の些技たる「才気」を引き去れば、遣るものは零である。わたくし達が生涯を賭し、全力を挙げて究明しようとする文学は、芸術であつて技術ではない。さうでなかつたならば男子一生の事業として文学に携はる必要は断じてないのである。

 贋作の如きは、元来Craftの範疇に属して、Artの範疇に入るべきものではないのであるが、しかし贋作者その人が真に藝術家としての大才と天賦とを享けてゐる場合には、屡々「贋作」も不用意の裡に「人間死生の一大事に深く勁く聯關」した不朽の「藝術」の域に昂められる。ThomasChattertonの擬古詩謡の如き、James Macphersonの”Poems of Ossion”の如きがそれである。Pierre Louysの”Chanson de Bilitis”の如きも幾どCraftの域を脱してゐる詩章が二三ある。之に反してW・H・Irelandの沙翁尺牘の贋作の如きは、飽くまで「贋作」としての興味の対象となるのみで、それ以上の価値もなく、それ以外の興趣もない。
 このArtとCraftとの識別は、これ以上には、個々の作品に就いての検到と、判者の藝術に対する味解鑑賞眼に俟つ外はない。
 実は、Poeの短稗talesにも、この藝術家として制作と、技術家としての制作とが、相半してゐる。技術家としての制作の最なるものは高名の「黄金蟲」The GoldBugや所謂「Dupinもの」と称される一類の探偵小説である。だが、この場合にも、嚢のChattertonやMacphersの場合と同様に、Poeの藝術家としての稟賦が、ある程度まで之等の作品を救つてゐることは事実である。それは「黄金蟲」に於けるSullivan嶋の叙景、主人公の心持などの、話の本筋とは縁のないdetailsを見ればうなづかれることである。
 だが、余談は擱いて、技術として技巧として眺めた場合のacrosticの問題に触れる。
由来、「優れたる藝術は、必ず技術の一面から見ても完成されたものである。わたくしが排撃するのは、技術以外に何ものもない制作であつて、技術そのものではない。従つて、便宜上、或はある特殊の目的若しくは立場から、故にある製作者若しくは作者の技術技巧のみを討ねると云ふことは、勿論退けるべきではない。

 しかし、acrosticはこの方面から眺めても面白い材料ではない。凡そ、言語を駆使統制すること、masterしcontorolすることは、詩家としての最初の約束であつて、たとへばsonnetであるとか、alexandrineであるとか云ふやうな詩型の、ややこしい約束と規矩とのなかで、自由にのびのびと思想を表白し、感情を盛り、言葉を操ることは、たとへば茶道の奥義を究めた者が、僅かに畳一畳を敷く狭い茶室に楽々と数人を招じて、厳重な礼法を守りながらこころ悠かに間を娯しむのと一般である。未熟の者がこの約束に縛られれば、唯その規矩に追ひ使はれて、言語を駆使するどころか、却つて言語に駆使されて、あはたゞしく、せせこましく、只管に見苦しいばかりである。しかし、actrosticの場合はかうした詩型上の約束のなかに安住するのとは本質から異つてゐる。詩型上の約束はこれに縛られてゐても、ひと度巨匠の手にかかれば、十七字の間に「人間死生の一大事」を「深く勁く」衝いて、底知れぬ深味を覚えさせる。Acrosticはその元来の目的が、詩そのものにはなく、藝術そのものにはないのである。如何にしても「文学遊戯」の埒外に出でることは出来ぬ。読者が之に接しての興味は、「なぞなぞ」を解く興味である。偵探小説を読む興味である。作者が之を作る感興も亦、唯それだけである。

 わたくし達がPoeを研究する場合に、かうしたacrosticは如何なる価値があるかと云へば、それは藝術としての価値でも興味でもないのは勿論である。それは伝記上の興味である。しかし、わたくしは此處ではそんな意味ではない、単なるamusementとして。読者にこの二章をお目にかける。 Poeのacrosticsの第一は、”A Valentine”と題し、その二は”An Enigma”と題するsonnetである。いづれも流布本の詩集中にも収められてゐる。


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