「三周年に臨みて」

東京古書籍商月報 大正12年3月(第3号)より 

我が東京市古書籍商組合の創設されてから、今年今月はちょうど満三周年である。ちょうど三年前大正九年二十五日始めて、組合発会式が図書倶楽部楼上に催された。もっとも其の二、三年前から書籍商同業者相寄って、漸次この機運を造り出し来たのは言うまでもないが、そこまで至るには容易ならぬ努力が籠もっていた。

そうして発会当時は組合員の数も僅々(きんきん)二百名内外に過ぎなかったが、僅か三年経ったばかりなのに、もう五百名以上に増加した。殆ど一年毎に約倍加の勢いを以て進んで来た。今は相当に基礎堅実に、組合員の信用も非常に増大して来たことは大に慶すべき事である。人間の生業は諸種雑多、挙げて算えば数限りないが、就中書籍商は新聞雑誌類を取扱うと同じく、「知識」の売買に従事するもので、最も文化的営業の一つである。

日本に木版、木活字版、あるいは瓦版などいうものが現れ、多少印刷術が起こってから、それまではどんな良い本でも読みたいと思っても買っては読めず、半年も一年がかりで毎日毎日これを書き写し、さらに乙が写し、丙が転写し、幾人か極めて僅かの人々がこれを読み、かつ見る他に道がなかった。それが印刷術の発明と共に、同じ本がはじめて、一時に沢山出来る様になり、だんだん世上に公布されて当時未開な我々の祖先、当時のちょん髷人士の文化をいかに速やかに啓発する所あったかは、言わずと明らかなことである。

細かいことを書くと限りないが、まず三百年前慶安頃より、足利時代の御成敗式目だとか、日本の昔の律令御定書というものが世の中に出はじめた。これは当時の世の中にあって人間が一番知らねばならなかったのは、人間各自の行為を律する、ああしてはいけない、こうしてはならぬという、お上の定めた掟であったからである。そうしてお互いに悪い事や、過って罪にならぬ様に暗路に警燈を掲げたようなものであったが、これに次いで現れたのは、啓蒙や庭訓や躾け草の類であった。人間の心に知識を吹き込んだのはまず一般にはこの頃からである。

それから二、三十年も経った寛文年間頃よりは、儒教や仏教や軍記物語や「江戸往来」や、「浪花詣で」という様な、今の言葉で言えば地理歴史といった類のものが現れ、当時の武士階級よりだんだん町人百姓の間にも大きな文字の本となって行き渡り読まれるようになった。

それから次には寛永頃より、何もかもごった交ぜにした今でいったら百科全書とたとえる合書が流行りだした。それには昔の大名の格式紋所から、名字尽くしや国づくし、九九もあれば算数の事もあり、歌から教訓から士農工商百般の節用もあり、これ一冊暗記すれば一連の物知りとなれたものである。

それから元禄時代になるとその種の本が更に分業化して、専門的な部門に分かれ、商売往来や、百姓往来や、大工、左官の仕事に関するものまで本になり発行された。元禄時代には美術書も出れば、先哲古賢の文書類の愛好の風最も盛りに、したがって名書画の偽書偽筆も、最もこの時代行われた。 つまりこの頃から天明、享和、文化、文政年間は書籍出版の全盛時代で、弘化頃ちょっと衰えたが、文久になって更に復興し更に維新に入り、明治時代となり、徳川末期より入って来た西洋の文物は、非常な勢いを以て溢れ出した。

これら当代の新知識、人知を進める精神の糧を仕入れて捌き、あまねく及ぼし、文化の手引きをしたものは、いずれの時代にあっても書肆である。
米屋は身の糧を商う生業なら、本屋は心の糧を扱う商売で、最も意義有る貴き営業と言ってよい。故に昔は書肆といえばいずれもその時代文化の中心となっている。京師とか浪華とか江戸とかいう三都の外には無かったものである、文化のある所書肆あり、文化の進まぬ地方には書肆というものは無かったのだ。これは今でも同じ事で、学校の門前には付きものの様に文房具学用品商あるが如く、学校の付近には本屋集まり学者学徒の最も多い神田本郷には東京中でも最も書籍商が在るのを見ても明らかな事で、世の文化は書籍商の多少に依って判ぜられ、同業者の数の多少は文化をみるのバロメーターであると言わねばならぬ。

人間は大抵その平常の読む本を聞いてその性行、人となりを知る事が出来るように、読書はその人の人物を語り、世間読書の人が殖えれば殖える程、書肆の数も多くなるのが自然なら、東京中の本屋の数が米屋の数程にならなければ忙しくてやりきれぬ位にならねば、一等国の日本人もいささかと行先が心細い。胃袋が充たされねば人が栄養不良に陥るように、目にこそ見えぬが精神上の栄養不良になってしまう。然るに日本は世界一の本の産出国なのに、国民は世界一の不良読書国民だという。何という皮肉であろう。





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