「長い絆で培われて刊行された書物
『映画学の道しるべ』」

牧野 守


 本年の「日本古書通信」一月号に掲載された稲垣書店の中山信如さんの書評「古本屋が『映画学の道しるべ』を読み解けば」を新春にふさわしい読物として拝読した。

 中山さんのウィットに富んだタッチの軽妙さは定評がある文章力でわたしも常に愛読するところであったが、今回の題材はそうはいかない、実はわたしの書いた本を題材とした書評であったからである。

 中山さんは自らも認め、都心で一番客のこない古書店の店主として知られている、古本にも客にもユニークな一家言の持ち主であるが、彼の専門分野である映画書の著書も複数出版されていて、わたしもその愛読者の一人として注目してきた。それだけに果してどんな書評を俎板に載せて料理したか興味しんしんであった。多分一筋なわではおさまらない油断もすきもないといったことになるのであろうといったハイテンションの緊張感に襲われながら見開き二頁にわたる記事を一気に読みあげた。

 中山流のレトリックは今でも健在で記述した文章中には微苦笑させられ、時には大笑いもさせられたりしたが、単なる映画書解説というより今日の社会時評の鋭い警醒を発する文明評論であることに感服した。

 ところで、中山評の冒頭は「しかし、それにしても、牧野守という人はなんて幸運な人なんだろう」に始まり、そのフレーズは文中に繰返して記述されている。いかにも中山さんらしい表現であって、彼の表現通りに受け取ると逆転の発想の展開となって、最後には彼一流の辛口の分析による評価が書かれ、結末では「しかし、それにしても、牧野守という人はなんて不運な人なんだろう」としめくっているのだが、それに到達する思考過程での問題提起には中山式経営から映画書籍の流通問題と映画ジャーナリズム、映画論壇そして映画美学の教育分野が直面する潮流を見すえた発言という警抜な内容となっている。  まさに、短いけれどこの書評に今日の日本の文化現象のすべてが要約されていて、筆者の出る幕はない。しかしながら筆者に紙面を提供して頂いた折角の機会に、当事者なりの数々のハードルを乗り越えて刊行に至る経過と長きに渡る様々の関係者の努力の一端を補足しておきたい。

 まず、この出版の企画段階の仕掛人として登場するのが文生書院の小沼良成社長がキーマンとして果した役割である。小沼さんとの絆が培われたのは今から五年前の二〇〇七年の頃からで文生書院創業八〇周年記念出版の企画として「キネマ旬報」復刻版(昭和戦前期)の企画が開始されたことにもとづいている。実はわたしもこの「キネマ旬報」復刻版に一貫して従事してきて、雄松堂からゆまに書房と出版社を経緯して実現してきた。この文生書院バージョンの昭和戦前期は空白期として刊行が見送られてきたのである。

当然なことなのだがそれなりの理由があっての困難な問題が解決できなかったのだが、その一つに原本の完全版の獲得という難題があった。実はそれも解決してくれたのが、今回の書評でユニークな発言をしている稲垣書店の中山さんであった。彼が復刻版の空白期を埋めるための原本を長年にわたって蒐集していてしかも復刻にたえる原本のハイクオリティーを保障する「キネ旬」を揃えていたのであった。それに着目した小沼良成社長が、名のりを上げることで懸案の復刻版が刊行スタートすることになり、わたしもその企画監修の立場で参加することでこの企画の準備体制が出来上がったのである。そして今日に至るまでほぼ三年間にわたり、この復刻版の刊行は進行途上にあるのだが、この経過のなかでキネ旬連載のわたしのコラムやマイナー媒体に発表した映画史関連の記述も復元する当書の刊行企画も検討されてきた。

 そのための重要な役割を果たすことになったキーマンの一人として、若き研究者の佐藤洋さんが浮上することとなった。重要な役割を担った佐藤さんについては中山さんも書評文中にもふれている様に彼の構成、編集の原典主義の実務に徹した作業がなければこの書物の刊行は実現しなかった。長期にわたる手弁当のむくわれない繁雑な調査そして執筆作業に打ち込んで刊行の実現にこぎつけることが出来たのである。この手間の掛かるライブラリー調査と若いジェネレーションの視点からの作業の前提として佐藤洋とわたしとの関係があり、その信頼感の絆が続いていたことで、わたしの一つの転機を迎えることになった。

長年にわたって収集してきた映画文献を、わたしも映画研究のテーマにする実証的記述と、書誌的な調査による研究の手がかりとして内外の研究者に提供してきたので、私の資料はマキノコレクションとして知られてきたが、そのマキノコレクションを保存することがアメリカニューヨーク市の名門であるコロンビア大学図書館の関係者によって合意に達した。そのコレクションの搬出という長期にわたる困難な作業に従事することで佐藤洋映画研究の方法論も力をつける結果となった。当書の『映画学の道しるべ』の解説で佐藤洋も記述しているが、コレクションが資料として一人立ちする前提として、このコレクションの設立の意図を明らかにしているのが本書である。

この様にして、当書の刊行の目標としてコロンビア大がプロジェクト企画したイベント・昨年十一月十一日に催されたパネルディスカッション「マキノコレクションの現在と未来」を設定。内外の映画研究者を含めて日本からも数名がパネリストとしてスピーチすることが出来た。わたしとの交流も深い旧知のアメリカ研究者も多数参加してこのイベントが充実したことが報じられていた。そのデータの詳しい内容は、まだわたしのもとには届いていないが、東南アジア地域の映画研究の一ステップとして今後の礎となることに期待している。当書『映画学の道しるべ』もこのイベントに滑り込みセーフで間に合わせることが出来た。これが不運なわたしから中山さんへの解答である。



プロフィール

牧野 守
映画史・映画文献資料研究者。1930年樺太生まれ。
テレビ・映画ディレクターのかたわら映画史を研究。集約した内外の映画資料はマキノコレクションとして知られ、2007年にコロンビア大学図書館に収蔵された。『キネマ旬報』等の基本文献を復刻しながら、映画運動・理論・制度史を研究。『日本映画検閲史』(パンドラ、2003)等の著書を発刊している。


 


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