自著紹介『死ぬまで編集者気分』

小林祥一郎


1954年の秋、平凡社に入社して百科事典雑部門を担当した。百科事典には必須だが、各専門委員会の選定からもれた雑具雑貨などの項目の落ち穂ひろい役である。たとえば制度としての金庫について書く人はいても、物としての金庫、貯金箱、財布などについて書ける人を探すのは簡単ではなく、雑部門には委員会もなかったから、町に出かけて書籍や資料を仕込んだ。私の通勤先は四番町の平凡社と神保町の古書展街との往復になった。また業界にとびこんで雑学の博識を訪ねた。

民俗学では柳田国男さんが採集の学であった民俗学を現代科学として再編成することに腐心し、人類学では岡正雄さんや石田英一郎さんが戦後大学ではじまった新しい人類学教室の設計に奮闘中で、私はその建設中の姿をまぢかに見ながら勉強することができた。おまけに『新日本文学』の編集長もつとめ、二束のワラジをはいていたのである。

この百科事典は署名原稿だから、執筆者が見つからないときは小池文貞氏の登場となる。この署名は編集部原稿で、雑部門のほか民俗学・人類学も担当することになった小林祥一郎、風俗その他を担当した池田敏雄、家庭を担当する立石文子、内藤貞子の姓名の合成である。やがてテレビの普及がはじまる。どのメディアでもこの方面の人を見つけるのは困難とみえ、テレビ局から小池文貞さんの住所を教えてほしいという電話がたびたびかかってきたが、小池氏は完結と同時に急逝していた。

『世界大百科事典』は四苦八苦の結果、1955年に完結。売れ行きが今ひとつだったので、社をあげて拡販活動にあたり、政財界人や文化人、芸能界の人々によって「世界大百科事典を薦める会」が結成された。それは下中弥三郎社長を信頼するあの時代の政財界のふところの広さを語っている。

その後、二代目社長の下中邦彦氏が企画した『国民百科事典』が空前の大ヒットになり、好景気がつづく。前後して私は『日本残酷物語』のリライト編集や、グラフ雑誌『太陽』の編集長をつとめたが、『アポロ百科事典』の返品の山をみて、『世界大百科事典』が売れているうちに、単行本を編集しながら新しい百科事典を準備しようと構想した。のちに評判になった「社会史シリーズ」はその過程の出版である。しかしその間、平凡社は今でいうリストラに迫られ、『大百科事典』は編集が遅れで絵ぬきの百科事典になり、私は女性誌『フリー』の創刊などで再建をはかったが、これにも失敗して平凡社を1985年に退職した。後半の編集者人生は、「本つくり」というより、生き生きとした「編集の現場をつくる」ことだったが、結果的にそれも不成功だった。「失敗の出版私史」という所以である。

マイクロソフト社に頼まれた電子版百科事典『エンカルタ』は、人生最後の百科事典作戦だったが、2001年、71歳のとき退職した。しかし私は今も空想の図書館つくりを楽しんでいる。死ぬまで編集者気分と題する所以である。



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