『大阪に東洋1の撮影所があった頃』について

株式会社ブレーンセンター 編集部

大阪──といったとき映画や撮影所、俳優さんたちを連想する人が何人いるでしょうか。え!?ポカンと口をあけているあなたにガツンと衝撃をあたえてくれるのが、本書です。映画の興業面だけでなく、製作面でも大阪の映画会社がかつて日本の映画界をリードしていたのです。もしかすると大阪は日本のハリウッドになっていたかもしれない、というほどの勢いが一時はあったのです。これはそんなことを書いた本なのです。

 人形浄瑠璃や歌舞伎、立方舞い…など、江戸の昔から大阪人の芸能好きは有名ですが、映画にもまた大阪人の心をとらえてはなさない、なにかがあったのでしょう。  大阪人の映画熱に火がついたのは明治末。千日前に映画館の前身、電気館が開場したことにはじまります。またたく間に千日前は映画街となり、新世界、道頓堀そして周辺地域へと爆発的に映画館はふえてゆき、昭和初期には日本の映画館の10%は大阪にあるとまでいわれました。

 千日前が映画街となったその一軒に娘義太夫の“小屋”を改装した三友倶楽部がありました。経営者は山川吉太郎。時代の風雲にのり、映画製作にも進出。やがて大阪の映画産業をリードし、“映画王”への階段を一気に駆けあがります。本書では東京目線からはまったくみえない客観的な映画史を展開すると共に、歴史のチリにうもれた、この時代の寵児にも頁をさき論じています。

 大正末から昭和初期、大阪は未曾有の好景気にわきかえり、映画産業も急速に発展してゆきます。映画会社や撮影所も雨後のタケノコのごとくに乱立。阪妻プロや東亜キネマ、マキノキネマ…などです。山川が興した映画会社は、このころ伝説的な相場師・松井伊助の協力をえて、規模を拡大し帝国キネマ演芸となり、日活、松竹につぐ日本3位のメジャー映画会社へと成長します。

 この帝国キネマ演芸、通称帝キネが建設したスタジオ(現・東大阪市 長瀬)は東洋一の規模をほこり、ハリウッドのメジャー級と当時評判をよんだものです。そんな写真も多数掲載しています。  また帝キネのドル箱スターといえば、チャンバラ映画の市川百々之助。当時、阪妻や市川右太衛門と並び称せられながら、なぜかこんにち誰も知らないという、不思議な大スターの写真もぜひご覧下さい。  藝術、文化、娯楽…かつて大阪は東京にひけをとらない“文化的首都”としての地歩をえていました。それがいつの間に、という思いは大阪人だけではないでしょう。

 失敗から学ぶ。大阪が歩んできた道を<栄光と挫折>の両面からふりかえろうとする市民講座<新なにわ塾>の第5弾。  本書は明治以来のチリをはらい、監督、小説家、俳優…など映画の世界にかかわる熱い人びとをとりあげ、大阪がもっとも輝いていた時代を再現させます。また収蔵庫のかたすみで眠っていたお宝写真もあわせてご覧いただきます。  さらに、現在、日本国内よりも世界で著名な、プラネット映画資料図書館代表の安井喜雄氏のインタビューも掲載しています。

株式会社ブレーンセンター 編集部


新なにわ塾叢書 第5巻 「大阪に東洋1の撮影所があった頃」
講話者:安井喜雄、笹川慶子、芦屋小雁、橋爪紳也、船越幹央、藤井康生、増田周子、阪本順治
編著:大阪府立大学観光産業戦略研究所+関西大学大阪都市遺産研究センター+大阪府+新なにわ塾叢書企画委員会(橋爪紳也・薮田貫・音田昌子・江島芳孝)


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