「読み」・解釈とどう向き合うか

山梨 あや

 拙著について語る機会をいただき、気恥ずかしさと、これをきっかけに新たな「読み」に触れることができるのではないか、という期待感とがないまぜになっている。本書は、なぜ読書という行為が教育の問題として取りあげられるようになったのか、そして読書という知的営為への参入は、誰に、どのような意味をもたらしたのか、という二つの問題を近代日本教育史の文脈において検討している。

筆者がこの問題に取り組み始めたのは、折しも永嶺重敏氏が一連の論稿・著作を刊行し、読書の問題が読書史や出版史にとどまらず、日本史、教育史、教育社会学など様々な領域において問われるようになった頃であった。書籍や新聞雑誌が誰に、どのように普及し、読まれていたのかという実態の解明にとどまらず、読者の意識や教養形成とどのように関わるのか、というより深化したレベルの研究が豊かになり、読書行為になじみのない人々がこの知的営みに参入する過程とその意味について検討していた筆者自身も大いに触発された。

 とはいえ、読書に関する研究、著作はともすれば「都市・男性・中間層以上の人々」を中心に検討する傾向があった。これは必ずしも書き手の問題ではなく、読書行為を歴史的に論じる際に必ず突き当たる資料的制約に因るところが大きい。別の表現をすれば、読書に関する資料的制約のあり方に、近代日本の知的営為に関する様々な偏差が反映されているのである。読書行為が内包する「知の偏差」にいち早く注目し、これを「社会教育」という枠組みの中で教育的に組織化しようとしたのが内務官僚、次いで文部官僚であった。本書において、読み書きを取得させ、さらに教科書を含む本を「読む」という経験を多くの人々にもたらす上で大きな役割を果たしたと考えられる小学校教育ではなく、学校外教育を担う社会教育に焦点化して読書の問題を論じたのもこの理由による。

 本書を執筆する過程で明らかにされたのは、「教化」か自発的な学習活動かという単純な二項対立では読書運動や読書指導を捉えきれず、読書により生み出される豊かな「読み」・解釈の歴史的意味を捨象してしまうということである。戦前・戦後を問わず、教育者や指導者、さらには書き手の意図を超えた「読み」は存在したのであり、この「読み」は様々な制約を伴いつつも、時として既存のものの考え方やあり方に揺さぶりをかける密やかな「力」となったのである。

研究者の一人として求められているのは、知的営みの所産をいたずらにラベリングしたりカテゴライズしたりするにとどまらず、一つ一つの営みと真摯に向き合い、その意味を紡いでいくことではないか、と考えている。本書の執筆後に見えてきた課題は多いが、筆者にとって最も大きな比重を占めているのが、読書運動や指導に携わった人々が、どのように学習者の「読み」や解釈と向き合い、彼ら・彼女らの知的要求に働きかけようとしていたのか、という問題である。恐らくこの問題に直面したのは、地域社会の知識人とも言うべき存在であった教員層であったろう。

本書でも事例として検討した長野県下伊那地方では、戦前から戦後にかけて図書館活動や読書運動が盛んに展開されており、戦後の読書運動に参加した古老からは、戦前の小学校時代の読書経験を重視する声が多く聞かれた。小学校教員は学校教育という枠組みを超え、家庭や地域社会に対する教育にも深く携わっていたことを踏まえ、このような状況下で読書をはじめとする知的営みはどのように育まれていたのか、そしてその知的営みの意味を明らかにすることが目下の目論見である。




『近代日本における読書と社会教育』 山梨 あや
法政大学出版局 定価:5,700円 + 税 好評発売中
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-68605-4.html





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