−日本古書通信−
掲載記事
(平成18年7月号)

 

イベントの位置づけ
   ― 独断の是非

東京青山・日月堂
佐藤真砂

http://www.nichigetu-do.com/

 

 二〇〇一年「女性古書店主たちのつくる棚」、〇二年「旅する絵葉書」「雑誌マニア」、〇三年「ウルトラモダン」、〇四年「ムラカミ家のモノに見る昭和史」「印刷解体」、〇五年「印刷解体vol・2」、〇六年「学校用品店」。これが、あるギャラリーを会場に、これまで手掛けてきた「企画展」である。今秋には「印刷解体vol・3」の開催が既に決定している。
 会場となるギャラリーは有効面積十二坪、百貨店の即売会と比べると凡そ十分の一程度だろうか、至って小規模なスペースだ。運営はディベロッパーである会社本体の宣伝局所轄なので、企画に対しては対外的な効果(ブランディング、宣伝、集客等)が求められ、売上はテナント運営を行う営業部に入るため、一企画平均会期・二週間での売上は(目録発行はなく場売りだけで)最低でも二百万円が目標とされる。対外的な効果も売上げもというのだから、正直にいって毎回ハードルの高さに頭を抱えることになる。こうした要求に応えるには、通常の古書即売会とは全く別のアプローチが必要だ。これが「即売会」ではなく「企画展」と呼ぶ所以であり、これまでの経過―わけても「ムラカミ家」以降は、古本屋の本道からむしろ積極的に逸れてきたものとしか映らないだろう。それぞれの詳細についてはネット検索か何かでご覧いただくしかないのだが、例えば「ムラカミ家」では、蔵書はもとより戦前の着物から納戸に眠っていた家電製品まで、一軒の家に眠っていたありとあらゆるものを販売した。「印刷」では、いまは使われなくなった活字のバラ売りをし、「学校」では普段は専ら学校相手に副教材を販売する会社の倉庫に残っていた人体模型や鉱石標本、試験管などを並べ、いずれも一般に販売したものである。「印刷」についてはまだしも―内外の印刷年鑑や印刷見本集、書体に関する冊子等―古本屋として投入するに相応しいものも集められたのだが、「ムラカミ家」は同家の旧蔵書が頼りだったし、「学校」に至っては全商材に占める古本率はおそらく五%にも満たなかっただろう。
 狭いスペースで印象の強い企画を立ち上げるには、どうしてもワンテーマに絞らざるを得ない。様々なお客さまのニーズに応えようという百貨店の総花的な方向とは逆向きだ。そしてまた、ここで必要なのは、やはり百貨店的な圧倒的な物量・多彩な価格の相対化によって売ることではなく、むしろどうやって商品を絞り込み、企図した世界や物語を鮮明に立ち上げ販売に結びつけるか、なのである。設定したテーマからはみ出すものは禁じ手として、それを阻害すると思えば、時に古本を削る場合もある。主役はあくまで「企画」それ自体なのであり、そうした在りようを保持することが企画者としての責任となる。実際、エネルギーの多くは、人さまのモノをお膳立てして商品化することに割かれることになる場合も多い(当初は販売促進の場として考えていたはずが、企画を練れば練るほどどんどん自身の商売は遠ざかっていき……一体、何をやっているのだか)。
 こうした試みは、会場の狭さによって成立している部分が大きい。小規模・少数の業者寄り合いでも充分、売場を商材で埋められ、従って意思統一さえできれば一者もしくは一定の視点で商材の取捨選択ができるからだ。また、会期の長さや設営日程の自由度の高さは、大仕掛けの演出(例えば「印刷解体」では植字台やウマなど印刷所の風景そのままに二日間をかけて移設・陳列する)を可能にする。さらに、企画全体に関わる部分に対しては経費の負担や企画料の設定などの点で多少なりとも交渉の余地がある。こうした事情がからみあってようやく実現しているものであり、百貨店であれ古書会館であれ、通常の即売会のなかに、このような企画を持ち込むのはほぼ不可能だと思う。即売会にイベントのようなものを付加していくのではなく、あくまで販売に軸足をおいた企画を持ち込むのは、恣意的な仕入れがそう容易でない古本屋の場合、どうしても困難が残る。やるとなっても参加者全員にその機会を振り分けることはできず、一部の「誰か」に利するものとなるだろう。独断を是とするか非とするかは、それぞれの構成員の判断だが、その独断が、時代やニーズに叶ったものだったのか、あるいはニーズを創出することができたのか、という最終的な判断は唯一、お客様たちに委ねられる。独断の下に健全さがあるとすれば、それはこの一点において、保たれるものだと思っている。

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