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根拠なき希望のありか

東京・日月堂 佐藤 真砂

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 百科事典の編集という仕事を終え、いつもの定食屋で夕飯を済ませると、テレビもラジオも置かない自宅に帰って本を読む。見るべきものがあれば美術館へと足を運び、歌舞伎、文楽には定期的に通う。戦没した旧友・知人の未亡人に宛てて時にペンをとるのは、少しでも慰めになればと思うからだ―主を失った家には、こうした日々を積み重ねて集められた膨大な蔵書が残されていた。

 聞くところによると、京都帝大在学中に学徒出陣で応召、「回天」の搭乗員に選ばれ、出撃を目前にして終戦を迎えたという。生涯独身を通し、自宅には例え血を分けた兄弟姉妹であれ、誰にも一歩も立ち入らせなかった。だから、庇を接して建つ隣家の妹さんでさえ、家中の様子を知ったのは主の没した後のことだったと。  今年二月から、こうして残された蔵書の整理をお手伝いさせていただいている。蔵書のなかに「回天」の搭乗員として訓練を受けていた当時のノートがあった。どの角度で突っ込めば敵艦にどのようなダメージを与えられるのか、シュミレーションした頁がある。自ら乗艦するはずの「回天」を示す、それはもう小さな丸印から、巨大な敵艦船首に向けて何本も何本も引かれた几帳面な直線。それは、自らの死への航跡に違いないというのに、どの線もまるで建築物の設計図のように精緻で、心の揺らぎや迷いなど微塵も感じさせないものだった。このノートと、学生時代から綴られた膨大な量の日記とが、妹さんご夫妻の手元に残されることになった。

 この家の主だった人物が、戦中・戦後を一体どのような思いを抱えて生きたのか、それを想像できるような深い洞察力・想像力を、残念ながら私はもたない。ただ黙々と、私は書架から本を取り出し、重ねて縛るばかりだ。いまは彼岸にある主にとって、書物が物事を思索する上での道具だったのであろうことは、美術畑を専門とされた仕事に関する書物を除けば、硬い人文科学・社会学系の書物が大半を占め、純粋に趣味的なものはミステリ以外に見当たらない蔵書の内容からも推察される。縛る度に積み上がっていく蔵書の圧倒的な物量と、その上に立つべき思索の主体であった人の絶対的な不在。いっそのこと、「鮮やかな」とでも云いたくなるこの対照を、私はどう受け止めればよいのだろう。

 書物というものが複製品である限り、再びの入手が叶わぬものなど実際にはごくわずかなものでしかない。けれど、一人の人間が長い時間をかけて集めた本を、一冊も違えることなく全て同じタイトルで揃えることは、至難の業ではないだろうか。命あるもの誰しも等しく、人生は一回きりのものだ。一人の人間が一生かかって集めた蔵書の全体像もまた、その一回性を映すようにして姿を現す。この事実の前に、これらを「塊」として「見る」最後の人間であることに、私はいつも何かしら粛然とした気分を味わうことになる。「塊」を切り分けていく途上には―店頭であれ市場であれ売ることが私の仕事だから―蔵書を「見つめる」はずの私の立場は、いつしか、残された蔵書を通してお手並み拝見とばかり、故人から「見つめられる」ものへと反転する。視線が交錯する。古本屋である私はこうして、今生、出会うことのなかった人たちと、この世で確実に「出会う」のだ。

 思えば古本屋になってからというもの、幾度かの、いまは亡き人との印象的な出会いを果たしてきた。ある家の昭和三代にわたる物語とともに、残されたモノを販売することになった「ムラカミさん」や、ウェブ上で特集目録を組んだ「K・K氏」は、なかでも忘れ難い存在だ。そして今回。国家という権力によって生死までをも翻弄され、情報革命の到来を見た二十一世紀初頭までおそらくは書物以外のメディアを信じることなく生き抜いたある男の生涯に、その片鱗ではあれ接することができるのは、古本屋という少し風変りな仕事に就いていて初めて可能になることだ。普通ならいくらお金を積んだところで得られるものではない。誤解を恐れずに云えば、こんな面白い仕事が他にあるだろうか。

 生活実態としては極貧に近い状況が続く商いである。本来なら、感傷に足を止め、故人を偲んでいるような余裕などあるわけがない。けれど、故人に対して誠実であること。これだけを見誤らずにやっていけば、いつか少しは楽になる日もやってくるだろう。根拠も理由も全然なく、けれどそんな確信がある。根拠のない確信であれば、例え水泡に帰そうとも、やがて私が彼岸の住人となった時、あちらの世界ではお前も少しは人様の役に立ったかと、頭のひとつも撫でてもらえたなら、すべてよしというものだ。


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