理事長がゆく

「和本リテラシー」の回復を 九州大学名誉教授 平成22年度文化功労者 中野三敏氏

小沼
さっそくですが、先生の書かれた「和本のすすめ」を拝読いたしました。現代の日本人の九割が明治以前に書かれた本を読むことが出来ない、そこで使われている変体仮名と草書体漢字いわゆる「くずし字」を読むことが出来なくっていることを憂えておられます。くずし字を読み解く能力を「和本リテラシー」と名付け、その回復がいかに重要かということを訴えておられます。ですが、自分こそまさにその九割ではないか、と思うと、ほんとにお恥ずかしいかぎりです。
中野
とにかく、このことがあまりにも耳遠いことになってしまっているものですから、機会の有る度に同じ事をお話しさせてもらっています。幸い聞き手は変わるものですから(笑)。
中野
まず、ここまで進んでしまった「くずし字」離れを、もう一度回復させるのは大変だなぁ、とつくづく思いました。当初は、これほどとは思わず、案外誰かが言えば「そうだ、そうだ」と同調してくださるだろうと思っていました。ところが、この十年、同じ事を繰り返し話してはみたものの、我々のような研究者以外の人々から賛成する声が一回も出てきたことはないですね。私はごく当たり前のことを言っているつもりで、そんなに突拍子もないことを言っているとは思いませんでした。同調してくださる方が現れないことの方がずっと不思議でしたが、最近ようやくわかりました。九割どころか日本人の九割九分九厘が「くずし字」を読めなくなってしまっていたのです。
小沼
九割ではなく、九厘までですか。
中野
みなさん面と向かっては「誠にその通りだ」と言ってくださいます。ですが、自分でも読めないのに、他人に「読んだ方がいい」と勧めるのはお尻が引けてしまう、だから自ら声を上げることを遠慮してしまうのだ、とある方が話してくださり「あぁ、そうだろうなぁ」と納得しましたね。
小沼
身近なところで、翻訳の状況と似ている様に感じましたがいかがでしょうか。例えば、明治の人達は外国語を一生懸命習得して日本語に翻訳しました。とにかく原文に当たらないと何も始まらなかった時代ですね。ところが最近では役割分担が進んだ為か、日本語に翻訳されているものが多くなり、原文に当たらずとも、日本語訳を読めばだいたいの意味はわかります。戦前の教育を受けた人より流ちょうに話すことはできても、本当の意味で読解力があるかどうかは疑わしい状況だと思うのですが。
中野
まったく同感ですね。実は最近、テレビ番組に出演し、和本と江戸文化について話をしました。神田神保町の古書店数店にも依頼して推薦された和本を撮影するつもりだ、ということを聞き、そうなると恐らく数百万から何千万円という和本が出てくるのではと思ったのです。皆さん「和本」とは値段の高いもの、と思っているかもしれませんが、うんと安い三百円や五百円の和本がまだまだ山ほどあるから、そういうところをぜひ撮影して番組でも紹介して欲しいとアドバイスをしました。ところが、そうなるとどこへ行ったら撮影できるのかがまったくわからない、と言われるので、古書会館という所があってそこでは古書即売展というのが開かれていると教えました。

値段の手頃な和本もたくさん箱にはいって売られているから、値段がわかるような箇所をちょっとめくって撮影してもらえれば、ご覧になった方々もそんなに安かったら自分にも買えると思っていただけると思いますよ、と。数万、数十万円では、よっぽど好きな方か、それこそ古書業者のような方でないと買えないと思います。かといって数百円の本は、仮にその値段で売れなければ次はツブシにしてしまうより他しょうがない、というのが実情だと思われます。文字が書けて読めないようなものは仕方がないとしても、 それでも数百円で買える様な手頃な和本が山のように残っていて、面白いものもあるのです。一般の方が読めるようになり、関心を持って買ってくださればその時点で取り留められます。

例えば、以前「和本の海へ」という自著の中で紹介した「異扱要覧(いあつかいようらん)」というものがあります。これは辻番人の心得、いわば番所のマニュアルの様なものです。管轄場所の境目で行き倒れがあった場合は何を基準に受け持ちを決めるのか、水死体が上がった時はどのように対処するのかなど、ありとあらゆる事態を想定した対処法が事細かく書かれています。一枚両面刷りのものですが、いつ誰が作ったものなのか、という肝心なことがまったく書かれていませんでした。

ところが、安い和本の山の中にこの写本がたくさん入っており、なんとその中に出版の年月だとか、誰の増版なのかということが心覚えで書いてあったのです。当時は買うよりもみな写して持っていたようですね。そういった写本がみな数百円ですよ。こよりで綴じているような簡素なつくりだったのですが、現物にはそういったものがまったく書かれていないのに、写本を買い、見ることで刊年や誰が作ったのか、など関連したことがわかる事もあります。中身は写したものなのでまったく一緒ですが、そういう意味では数百円の本でも充分役に立ちますよ。

それは、もしかしたら我々のような研究者にとって役立つ話、なのかもしれませんが、一般の方でもちょっとした旅日記など手ごろな値段で買えるものもたくさんありますので、手にとっていただければ面白いことがだいぶわかると思いますよ。
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