住吉
旧斯道文庫の中には「浜野文庫」(漢学者・浜野知三郎旧蔵)のように、学者の蔵書をそのまま引き継いだ形の「文庫」がいくつかありました。文庫の目的は、ただ珍しい本を大事に取っておくだけではなく、資料を研究に使うことにあります。そこですぐれた学者の持っていた蔵書をそのまま配置すれば、その方と近い環境で利用することができます。ただ古写本のような一部の貴重本は抜き出して保存しています。 この「安井文庫」は昌平坂学問所の教授だった安井息軒の蔵書を、麻生氏が安井家から購入したものです。江戸時代は漢学が大変盛んでしたが、幕末にその遺産を一手に引き受け非常に高度な考証学を行ったのが息軒です。明治の漢学者はほとんどが息軒の弟子というくらいに大変権威があった方です。
小沼
ちょっと私たちにはわからないような本が並んでいますね。
住吉
学者の方でも「こんな本まで持っていたのですか」と驚かれることがありますよ。
小沼
しかしこれだけの本を個人で集めてしまう意識の高さにはとても驚きますね。学者であれば当然なのかもしれませんが、現代にも少なからず受け継がれるべきではないでしょうか。
高橋
ただ、そこにはやはり古本屋さんの在り方が大きく関わってくるはずです。書誌学は古本屋さんから本を買わないと成り立たない学問ですから、ほとんど一心同体のようなものです。「安井文庫」にしても息軒の孫の小太郎の蔵書が相当ありますが、すべて古本屋さんが集めたものなんです。その中から欲しい本を選んでいるだけで。だから表立って言わることはありませんが、学者にとって、もっと言えば文化そのものにとって古本屋さんの存在はとても大きいんですよ。
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住吉
「明治仏教史編纂書蔵書」は、友松円諦師が開いた無宗派の寺院・神田寺が収蔵していたものです。主に友松さんが、明治仏教史を編纂するために集めた仏教関係の雑誌で構成されています。明治時代は廃仏毀釈もあり、仏教界に高いストレスがかかった時代で、議論は百出し雑誌の発刊が流行しました。このようなコレクションは他になく大変珍しいものです。かなり酸化が進んでしまい、脱酸化を進めなければならないのですが、費用の問題もあって手を拱いているような状況です。 「坦堂文庫」は熊本出身の漢学者・古城坦堂の旧蔵です。元々は細川家が持っていたものですが、麻生家との関係から寄託になっています。古城さんは日本で初めて中国文学史を書かれた方で、本を集めるために中国まで足を運ばれていますから中には明清版が多くあります。ちなみに中国の本は紙の色を見れば大体わかるんです。
小沼
材料が違うんですか?
住吉
竹紙といって細い竹を腐らせ繊維を取り出し、紙を漉いています。紙に少し黄みがかっているんです。もちろん例外もありますが、明代の頃から普通に使われるようになったようです。日本で竹を使ったという話はあまり聞かないですね。 他にも細川家からはフランスの東洋学者アンリ・コルディエ旧蔵の洋書五千冊からなる「コルディエ文庫」を寄託されています。
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住吉
この辺りは書庫の中でも最も環境が良く、諸文庫から抜き出した貴重な本が配置されています。古本屋さんのご努力によって納めて頂いたものも沢山あります。元々持っていたものですと、例えば先程紹介した息軒の代表的著作である『論語集説』の稿本があります。『論語集説』は明治以降の日本人がすべてこれを使って論語を読んでいたというほど有名な注釈書です。
小沼
赤字の書き入れが沢山ありますが、これも息軒の手によるものですか。
住吉
何度も原稿を作っては修正を加える、つまり原稿を鍛えるんですね。だから版本が出る前にこういった稿本がいくつも作られることになります。 これは江戸時代の国学者・橘守部が書いた『万葉集』の注釈です。「椎本文庫」という守部の蔵書ですが、やはり『論語集説』と同じように何度も推敲が重ねられています。守部の本はほとんど出版されませんでしたが、私たちも研究を重ねていくうちに似通ってくるのか、段々と出版から遠ざかってしまうようです(笑)。こういった江戸時代の学者の自筆稿本の収蔵は斯道文庫の大きな特長の一つです。
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住吉
丸善社のライブラリーニュース誌に佐藤道生氏が中国マネーによる日本からの漢籍流出について書かれていました。それに関して「本来は中国の書籍なのだから良いじゃないか」という意見もあるようですが、単純にそうとは言えません。これは『東坡先生詩』といって今年の和本シンポジウムで展示させて頂く蘇東坡の文集です。宋末か元初に出版されたもので、中国の方は当然自分たちの文化財だと考えるでしょう。けれども本文には室町時代の様々な禅僧による書き入れがあり、スペースが足りないため台紙に貼ってさらに注釈を加えています。必死になって漢籍を勉強していたことがよくわかる、素晴らしい資料なのですが、印刷された部分は中国のものであっても、全体として見れば日本の文化財ともなっていて、最早切り分けられないんですね。これを中国の方にお見せすると、確かにと理解してくださることもあれば、美しくないとはっきり言われることもあります。
小沼
このような本の切り貼りを専門とした職人がいたのですか。
住吉
当時はお寺の周辺に、手に職を持った人が大勢いて、こういう作業はそのような人たちの手によるものでしょう。江戸時代には経師屋という職業が一般化しますが、室町時代の様々な職人を絵と和歌で取り上げた「職人歌合」を見ると、この頃には既に独立していることが確認できます。 室町時代にはこうしたテキストを切り貼りして勉強する方式が顕著に見られます。もちろん書き入れはそれ以前からありますが、最も情報量が増えたのは室町末だと思います。日本は室町になり、ようやく版本によって色々な本が読めるようになりました。流通量が増えたことで個人が蔵書を作って勉強できるようになったわけです。恐らくそれがとても歓迎されたのか、色々な本から参考になる記事を集めては注釈を加えることが流行り、極端に情報過多の状況が生まれます。江戸時代には沈静化し必要なことだけを書き入れるようになりますが、そういった情熱的な経験を受けて近世の客観的な学問が生まれたのではないでしょうか。
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